きものはうす 五箇谷

心の晴れは自分しだい

こんな着物・こんな帯・
その日の気持ち、その日の風、
そんなことでも変わる
今日の着物あわせ・・・
ちょっと書いてる気持ちや色々なことです

8月15日、母🤱の話から思うこと。。

2019年08月14日

私の母は昭和5年生まれの89歳、
80歳を過ぎた頃から
少しづつ記憶が留められなくなり
今、穏やかに歳を重ね
和かに過ごしています。

私は「認知症」と言う言葉が好きではありません。

それぞれの方々が
壮絶な人生を歩み
そして数え切れないほどの思い出や経験をされて
生き抜いて来たその長い人生の後期として
老いや記憶の遠のきなどを
総称して一言で片付けてしまうのは
あまりに残酷でぞんざいな表現ではないかな?
と思うことがあります。

数年前、母の異変に気付き
姉と私は色々な病院へ母を連れて行きました。
そこで医師に
「認知症ですね」と
一言で済まされることに
とても違和感を感じていました。
もちろん
医学的には「認知症」でしょう。
でも母の人生を知っている
私達にはその一言だけの回答ではないと思う
気持ちが強くあります。



母は記憶が留まらないだけで
他の事はきちんと分かっているし、
私たちにもとても気を使って
優しくしてくれます。
介護士さんたちにも
感謝の気持ちを表してくれます。
本当にとても穏やかで優しい母です。


そんな母を訪ねて
お菓子を食べながら
会話をするのは
私にとっても、安らぐひと時なのです。
母はスイーツ好きだから
美味しそうに食べてくれるのも
嬉しいです!
(*^^*)


母の部屋に小さなホワイトボードがあります。
先日のこと・・
前日に姉が訪問してくれたようで
そのホワイトボードに
「もうじき終戦記念日です。
あれからもう74年になります。
今は穏やかな時代ですから
安心して過ごしてくださいね」と
書いてくれてました。


私がそれを読み上げると
「そう?〜もう74年になるのね。。
じゃ私はいくつになったの?」と
聞いてきました。
「89歳よ。。終戦の時は15歳だったんだね」
っと言うと

母はそうそう。。。と
空襲の時の話をし始めました。

母は
今過ぎた事の記憶は残りませんが
昔の記憶はとても鮮明に残ってるいるのです。


まずはその頃の服装について
・・
おしゃれなんてとんでもない。。
毎日同じ服よ・・
着物壊して作ったもんぺや
ゴワゴワな素材の上着
空襲が多くなると寝るときだって
同じものだった。。
すぐに外へ出られるようにね。。
年頃な女の子なのに。。
辛いね・・(T_T)


母は2人のお兄さんを戦争で亡くしています。
赤紙が来て
家族で「良かったね〜」
っと
心の中とは全く違う言葉で
皆んなでお兄さんたちを
送るしかなかったこと。。
そのお兄さんたちは
太平洋のどこかで戦死した。。
紙切れ一枚の報告で
どこで死んだのか。。
それもわかってない。。

でも納得するしかないし。。ね。。と・・


空襲は毎晩
当たり前のように有ったと言ってました。
もう、怖いとか嫌だとか
あまりそう言う風に感じなくなり
慣れっこになってしまったと。。。
お母さんが
「今夜も空襲が来るから
早くご飯食べて早く寝るのよ」と
まるで日課のごとくそれは本当に毎晩のように。。。
そして
それに慣れてしまうことが
怖いことだと思ったと言っていました。


母は東京の中野に住んでいたそうですが
東京は今とは全く違って
下町の方も見渡せるくらい、、
毎晩アメリカの飛行機から
焼夷弾が
バラバラバラ・・・・
と連なって落ちるのを
あそこに落ちた!
今度はあっちだっと
見ていたわ。。。と
それを手振りを入れて
話してくれました。

こんな話をこんなに具体的に
母から聞くのは初めてでした。

母はそれからもたくさん、話してくれました。

大きな空襲が有った次の朝。。
外へ出ると焼けてる家もたくさんあり
人が道端に倒れて亡くなってる。。
などと言う光景もたくさん見た。。。と
それを町の人が片付けていくの。。。っと
最初は怖かったけど
それも慣れてしまうのよ。。


テレビのドラマやドキュメント番組で
そのような事は見たことがありますが
母の真実の記憶に
その光景と同じ体験していたとは。。。
そんな事一度も聞いたことが無かったな。。。

でも

もしかしてそんな体験は忘れてしまいたいと
思っていてわざと
口にしていなかったのかもしれません。


そしてもう一つ印象的な話は。。。
母の家に良く来ていた
酒屋の御用聞きのお兄ちゃんがいたそうなんですが
ある日。。。
母の家に寄って子供だった母と話していたら

縁側に寝そべって
腕を枕にして空を見ながら

「俺、戦争に行くんだ」と

ポツリと話して
その眼の淵から涙が落ちていたの。。

とても可哀想な思い出。。
あれからあの人どうしたかな?
死んじゃったんだろうな。。。と
母が寂しそうに話してくれました。







私は母の遠い日の記憶
でも鮮明に残ってる記憶を。。。
実際に聞いて複雑な気持ちになりました。

母と過ごして来た時代はとても
幸せな時代でした!!

だから時折、
戦争の話を聞いていても
そんなことがあったんだ!
でもこれからは絶対戦争しないから
そんな時代に生まれ無くて本当に良かった!っと
全くこの先の心配をしたことが無かった。。
今の時代に安堵していただけだったと思いました。



でも今回改めて母が話してくれた事を
聞きながら。。
もしかしたら
『絶対無い』
ではなく
この先もこんな事が起こらないとは
言い切れない。。

私は『確実に安堵な気持ち』が
『不安が入り混じった気持ち』に
変わってきている事を
感じました。






そしてこのお猿さんは。。。
母の守り神だそうです。

母の家が空襲で焼き出された時に
家の跡地に戻ってみたら
みんな焼けて無くなってしまったのに
この猿の置物だけが
残って転がっていたそうです。

本当は
茶色のお猿さんだったそうですが
焼けて真っ黒になってしまっていたので
タワシでゴシゴシこすったら
塗料も剥がれて白いお猿さんに
なってしまったそうです。

「あなたも何か困った事が
有ったらこのお猿さんに
お願いしてみるといいわよ。
きっと守ってくれるから」と
母はそう言って私の手に
このお猿さんを渡してくれました!






わたしは母の話を聞いてから
昨日、、ネットで調べて
江東区にある
『東京大空襲・戦災資料センター』を
訪ねてみました。

https://tokyo-sensai.net/
ここでは戦争に
自由を奪われてしまう生活を
痛切に感じました。

空襲から
「将来の戦力」となる
学童を確保・保守のため
都内に住む小学生は
学童疎開。。
縁故関係が無い児童には
集団疎開へ強制的に・・・
(学童疎開って。。。
子どもたちの安全最優先かと思っていたけど
国の真の目的は
『将来の戦力』の確保だったの!?)

そこで親子間でやり取りされる
手紙の数々。。
こんな手紙をもらったら・・
親として
どうしようもない切なさ・・
今すぐでも迎えに行ってやりたいと
思う気持ち。。
でも出来ない悲しさを
感じて
涙が溢れてしまいました。
(でもその手紙は先生方の検閲を通るものだけ
本心は書けないものだったそうです)


戦時中の生活が分かる展示品もありました!
印象的だったこの像。。。

この表情。。
強く抱きしめる腕・・
見ているだけで
深い愛が伝わってきました!



大事なこと
忘れてはいけないこと。。
絶対に戦争はしてはいけない。。


私はこの歳まで平和の日々をずっと過ごし
こんな悲惨な光景は
こんな辛い体験は
二度と起こらないだ!と
信じ切って
平和ボケになっていたのかもしれません。

平和・・そして自由って・・・
ずっとその中にいると
当たり前になってしまうのですね!
平和で自由である時代
それがどんなに幸せで尊いことか。。
私達はもう一度
しっかり感じて
これからも
この平和で自由な時代が続くように
一人ひとりが
他人事に感じず、
流されることなく
そして
関心を持ち、
きちんと見定めて
いかなければいけないと
強く強く。。。思います!


母が今
色々な柵を解いて・・
私に話してくれた戦争・・
今だから余計に
心に染みました!



皆さん、今日をどのようにお過ごしですか??

みんなみんな
ずっと幸せに暮らせますように!!

2019年8月15日

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